真珠湾攻撃から80年、東南海地震から77年

 先週、12月8日に、真珠湾攻撃による太平洋戦争開戦から80年を迎えました。開戦当初、日本軍は連戦連勝でしたが、戦況が悪化し3回目の開戦記念日の準備をする中、1944年12月7日に東南海地震が発生しました。南海トラフ沿いの東側で起きたこの地震では、名古屋にあった三菱重工名古屋航空機製作所道徳工場や、半田にあった中島飛行機半田製作所山方工場などの軍需工場が大きな被害を受けました。戦時下のため、情報統制が行われましたが、地震観測により地震が検知され、翌日の米国の主要紙では、日本の中央部で大地震発生と報じられました。

 そして、6日後、地震の復旧活動中の12月13日、米軍が名古屋を空襲しました。同じ日、東山動物園では猛獣が殺処分されました。1か月後の1945年1月13日には三河地震も起き、2度の地震と度重なる空襲という複合災害に見舞われることになりました。

12月13日の空襲

 今もそうですが、当時の名古屋は日本随一の航空機産業のメッカでした。三菱重工業名古屋発動機、同名古屋航空機、愛知航空機など、重要な工場が集中立地していました。なかでも、航空用発動機生産高の4割以上を生産していた三菱重工業名古屋発動機製作所大幸工場は、航空機生産の日本最大の拠点でした。この場所には、今、ナゴヤドームや名古屋大学大幸医療センターがあります。

 ここを、12月13日に、B29爆撃機90機が空襲しました。その後、翌年4月まで7度にわたって爆撃が繰り返され、工場は壊滅しました。私が通った小学校はこの工場の近くにあり、戦前の鉄筋コンクリート造校舎で学びましたが、屋上には銃撃の後が残っていました。

焦土と化した名古屋

 名古屋の最初の空襲は1942年4月18日でした。米空母「ホーネット」に搭載された16機のB25爆撃機が、東京を始め日本各地を攻撃し、そのうちの2機が名古屋に来襲しました。その後、途絶えていた空襲ですが、12月13日の大空襲を皮切りに大規模な空襲が繰り返されました。

 12月13日以降も、名古屋への空襲は執拗を極めました。10万人もの死者を出した3月10日の東京大空襲の翌々日、3月12日にB29爆撃機200機が市街地を空襲、翌週3月19日にもB29爆撃機230機による空襲がありました。2回の空襲で、市中心部は焼け野原になりました。さらに、5月14日にB29爆撃機440機による空襲で国宝・名古屋城炎上、6月9日に熱田空襲、7月26日にエノラ・ゲイによる模擬原爆投下など、計63回の空襲がありました。

 名古屋市域の24%が焦土となった名古屋は、戦後1945年12月に「大中京再建の構想」を発表し、大胆な土地区画整理事業と寺社・墓地の移転によって、縦横の100m道路を中心としたインフラ整備で戦災復興を果たしました。

逃げ出さないように、東山動物園で猛獣殺処分

 名古屋空襲のあった12月13日、東洋一の動物園といわれた東山動物園で猛獣が殺処分されました。爆撃で破壊された飼育施設から猛獣が逃げ出さないようにするためです。

 東山動物園のホームページによると、東山動物園は、名古屋市の東部丘陵に1937年に開設され、最盛期には700種1000点を超す動物がいたそうです。1943年に、空襲時に危険との理由で東京・上野動物園で猛獣24頭が毒殺されたのを受け、東山動物園でも一部の猛獣が殺処分されていました。そして、1944年12月13日の名古屋空襲の日、治安維持のため、猛獣の射殺が命ぜられ、ライオン2頭、ヒョウ、トラ、クマ各1頭が射殺されました。幸い、ゾウ4頭は殺処分を見合わされました。

 その後、翌1945年1月13日、三河地震が起きた日、動物園の一般観覧が中止になり、2月16日に閉園されました。そして、8月15日、終戦を迎えます。この間、飢えや病気で多くの動物が命を落とし、終戦まで生きのびたのは、ゾウ2頭、チンパンジー1頭、カンムリヅル2羽、カモ20羽、ハクチョウ1羽だけだったそうです。終戦後、再び動物園が開園したのは1946年3月17日です。生き延びたマカニーとエルドというゾウ2頭は、戦後の子供たちに夢を与えたようで、ゾウ列車に乗った子供たちが全国から東山動物園を訪れたそうです。ちょっと微笑ましい話です。

今が、東南海地震の6日後だったら被災地は?

 さて、今日、2021年12月13日が、東南海地震の6日後だったら社会はどんな状況になっているでしょうか。現代社会の被害様相は戦時下の77年前とは大きく異なります。

 被災地では、強い揺れによる建物の倒壊、地震火災、津波による家屋流出などが広域で発生し、その対応に集中しているでしょう。地震直後は、命を守る救命救出が最優先されます。死者・行方不明者への対応、けが人の手当て、避難者への支援などです。このためには道路啓開が必要ですから、沿道の倒壊家屋のがれき撤去が優先されます。あわせて、社会機能の回復のため、電気、上下水道、ガス、鉄道、通信網の復旧が精力的に行われます。また、自宅での生活が困難な住民の多くが避難所生活を続けており、全国から支援物資が供給されます。多くのボランティアが被災地に入りますが、被災者の多さのため、支援者不足の問題が発生しているでしょう。

 東日本大震災の1週間後の新聞紙面を見ると、余震や誘発地震が頻発、行方不明者の捜索、医療資源の不足、避難所生活の不満、鉄道の一部再開や道路開通、ライフライン復旧、電力不足による計画停電、ガソリン不足、給水活動、各種支援活動などの記事が認められます。

 東日本大震災のときには、道路啓開が概ね行われたのは1週間後、仙台空港が救援物資を受け入れたのは5日後、臨時便が運航再開したのは1か月後、釜石港に緊急物資船が入港したのは5日後でした。これらから推察すると、地震の1週間後は、産業も含め社会機能は停止し続けており、そろそろ復旧への道のりが見え始めてくる頃だと思われます。

 この時期には、被災家屋の応急危険度判定や罹災証明のための被害認定調査が本格化し始めます。また、応急仮設住宅の建設にも着手し始めます。ただし、海抜ゼロメートル地帯は、万一堤防が決壊したら長期湛水を覚悟せざるを得ず、広域避難をすることになると思います。

後発地震の予想被災地では?

 東南海地震が発生すると、気象庁は、地震発生直後に、南海トラフ地震の震源域の全域が破壊したと考えて、広域に大津波警報を発表します。このため、南海地震と東海地震の津波浸水予想地域の住民も、津波避難を求められます。

 さらに、気象庁から南海トラフ地震臨時情報(巨大地震警戒)が発表されます。南海トラフ沿いの震源域の割れ残り場所では、後発地震の続発が懸念されます。このため、後発地震発生時に津波等から命を守る時間猶予のない地域を、自治体が予め「事前避難対象地域」に指定しています。臨時情報(巨大地震警戒)が発表されると、当該地域の住民は、1週間の事前避難を求められ、津波警報解除後も自宅に戻れず、安全な場所に避難することになります。

 地震6日後の時点は、事前避難対象地域の住民は避難中になります。それ以外の地域の人たちは、後発地震に備えつつ社会生活を維持することになります。1週間終了後は、自宅に戻れますが、さらに1週間注意を怠らずに生活を続けることになります。

 ちなみに、東南海地震のときには、2年後の1946年12月21日に南海地震が発生しました。その間には、1945年1月13日に三河地震が起きています。ですから、2週間経ったら安全というわけではありません。一方、江戸末期に起きた安政東海地震の時には、約30時間後に安政南海地震が、さらに2日後に豊予海峡の地震が起きました。この場合には事前避難によって多くの命を救える可能性があります。

 

 このところ、地震が頻発しています。地震の時に起こることについて想像力を逞しくし、一つずつ地震対策を進めていきたいと思います。