cshosの日記

地震&私生活

過去の恨みの事件ね!!!

マツダ工場殺傷、容疑者起訴 「嫌がらせ放置で恨み」

 
 

広島・マツダ工場で6月、車にはねられた12人が死傷した無差別殺傷事件で、広島地検は29日、殺人や殺人未遂などの罪で、元期間従業員、引寺利明容疑者(43)を起訴した。地検によると、引寺被告は動機について「同僚からの嫌がらせを放置したマツダに恨みを持った。事件を起こせば評判が地に落ちて、復讐(ふくしゅう)できると思った」と供述している。

嫌がらせについては「家の中に入られたり、車の中のものを勝手に動かされたりした」と説明しているが、広島県警の捜査の結果、嫌がらせの事実や上司に相談した形跡は確認できていない。

地検は精神鑑定の結果、完全責任能力があると判断。事件直後「秋葉原(の無差別殺傷事件)を超えた」と事件を誇示する電話を知人にかけており、結果の重大性の認識もあったとみている。

弁護側は「動機と犯行結果が合理的に結び付かない」と主張。「心神喪失」で刑事責任能力がなかったとして無罪を主張する方針で、裁判員裁判の審理では責任能力の有無が主な争点になる。

起訴状によると、6月22日朝、広島県府中町広島市南区にまたがるマツダ本社工場と隣接する宇品工場で、時速40~70キロで出勤中の社員ら男性12人を車で次々はね、社員、浜田博志さん(当時39)を殺害し、11人に重軽傷を負わせたなどとしている。〔共同〕

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豊田商事会長刺殺事件

豊田商事現物まがい商法による悪徳商法によって被害者数は数万人、被害総額は2,000億円の巨大詐欺事件を起こした会社として社会的に注目されていた。

1985年(昭和60年)6月18日、大阪市北区にあった豊田商事会長・永野一男の自宅マンションの玄関前に「今日逮捕」との情報を聞きつけてマスコミ取材班が集まっていた。

同日16時30分すぎ、詐欺被害者の元上司に当たる男[注 1]2人(以降、IY)が永野の部屋の前に姿を現した。2人は張り込んでいたガードマンに「永野に会わせろ」と要求。連絡を取るためにガードマンが階下に下りたあと、2人は元部下の被害者6人から「もう金はええ、永野をぶっ殺してくれ」と頼まれたと報道陣に語った[1]

そして通路に面した玄関横の窓のアルミサッシを蹴破り、窓ガラスを割って侵入。永野の頭部など全身13か所を旧軍の制式銃剣で刺した。大勢のマスコミが生放送したが、誰も止めようとはしなかった[注 2]。部屋から出た犯人らは、「おい警察呼べはよ。俺が犯人や」と報道陣に語り、さらにマスコミの質問に答えたあと、エレベーターに乗り、マスコミにタバコを要求した。そして、マンションから出たところで駆けつけた大阪府警天満署員に殺人の現行犯で逮捕された。永野は直ちに病院へ運ばれたが腹部を刺されたのが致命傷となり、事件発生から約45分後の17時15分、出血多量で死亡した。このときの永野の所持金はわずか711円だった[2]

毎日放送報道局社会部の記者として永野の部屋の前の廊下に居合わせた西村秀樹(現在は近畿大学客員教授)は、加害者(IおよびY)へのインタビューを試みる一方で、近隣の住民を通じて現場を管轄する天満警察署へ通報した。現場界隈を警ら活動中だった同署の巡査にその一報が伝わったことから、加害者の逮捕に至った。逮捕の直前には、通報を受けて駆けつけた警察官に向かってマンションの入口で、マスコミ関係者が(加害者を)早く逮捕せいやなどと叫んだ。当初は加害者も「犯人は俺や」などとこのマスコミ関係者と同調して発言していたが、周りに多数の人間が居たこともあり調子に乗って何度もマスコミ関係者が叫んでいると、この態度に加害者が苛立ちマスコミ関係者を殴打するという一幕もあった。西村の証言によれば、豊田商事事件の捜査を兵庫県警察が一手に担っていたことなどから、大阪府警察では現場のマンションを特に警備していなかったという。

永野が惨殺された際の映像(永野は室内にいたため殺害そのものの様子は写らなかったが、上記の犯人の侵入の様子および窓際に置き去りにされた血まみれの永野がストレッチャーで運ばれる様子が映像に残された)はNHKニュース民放テレビ各局で中継された。このとき、日本放送協会「子供には見せないでください」と慌ててアナウンサーが呼びかけた。その後発売された『FOCUS』では、犯人の1人が血まみれで断末魔の形相の永野を抱え、もう1人が銃剣を持つ写真が誌面を飾った。

読売新聞が読者投票で選ぶ1985年の日本10大ニュースでは、この惨殺事件が日本航空123便墜落事故に次いで第2位に選ばれた。

その後の詐欺事件の捜査で、豊田商事が集めた金のほとんどが流用され残っていなかったことが判明するが、最高幹部が死亡したため金の流れに関して解明が難しくなった。結果的に捜査に支障をきたしたため、犯人は関係者に口封じのために殺人を依頼されたのではないかといった憶測も流れた。

1986年(昭和61年)3月12日大阪地方裁判所でIに対し懲役10年、Yには懲役8年の実刑判決が言い渡された。それぞれが控訴し、1990年1989年に刑が確定した。

その後、犯人の1人は周りにいたマスコミに犯行の示唆教唆があったとして4度再審請求をしたが、いずれも棄却されている。