明和大津波」から考えよう

更新日:2021年11月05日

 11月5日は、第70回国連総会本会議(平成27年12月22日)で「世界津波の日」を定める決議が採択されました。この決議は、日本をはじめ142か国が共に提案したもので、11月5日を「世界津波の日」として制定されました。この決議により、津波の脅威について関心が高まり、その対策が進むことが期待されています。

 石垣市でも、「世界津波の日」を鑑みて過去に甚大な被害を被った「明和の大津波」や「明和大津波」という言葉を聞く機会が増えると思います。ずっと昔に大津波が襲来したということは知っていると思いますが、実際に、どんな津波だったのかを知っていますか?

ここでは、過去の津波を学び、防災や減災に活かすためのヒントを一緒に考えてみたいと思います。

その前に用語を確認しましょう。一言で津波の高さ、と言っても種類があります。

津波高:津波がない場合(平常時)の潮位から津波によって海面が上昇した高さ。

痕跡高(浸水高・遡上高):津波がない場合(平常時)の潮位から津波痕跡までの高さ。明和大津波でよく議論になるのは、遡上高です。

浸水深:地盤から津波痕跡までの高さ。

→(https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/faq/faq26.html 気象庁HPより)

 

1 明和大津波とは?

2 明和大津波の特徴

3 どんな被害があったの?

4 津波の遡上高はどれくらい?

5 過去の災害を防災・減災に活かす

1 明和大津波とは?

 明和大津波は、1771年に起こった琉球史(古くからの沖縄の歴史)におけるもっとも被害の大きかった自然災害です。津波の被害が注目されていますが、古文書(昔の人が書いた歴史記録)には、大きな地震があったことも記されています。

 

 古文書によると、乾隆36年3月10日の午前8時頃、津波が起こったとあります。

 乾隆は、日本語的には「けんりゅう」と読み、当時の琉球王国で使われていた中国の元号で、3月10日も旧暦であることから、現代では分かりやすく1771年4月24日と、西暦を使って紹介しています。4月24日が石垣市防災の日になっているのは、これが理由です。

 →https://www1.g-reiki.net/reiki499/reiki.htmlより「石垣市防災の日を定める条例」を検索

 ちなみに、「明和」というのは、日本の元号です。乾隆36年=明和8年であることから、昭和時代になって「明和」がよく使われるようになりました。

 

 よくある質問に、「明和大津波を引き起こした地震震源地はどこか?」というものがあります。多くの皆さんがイメージするのは、石垣島の南東沖。今村明恒先生のモデル(https://www.jstage.jst.go.jp/article/zisin1929/10/10/10_10_431/_pdf 国立研究開発法人科学技術振興機構HPより)や『理科年表』に掲載されたモデルだと思います。

答えを言うと、今でもいくつも説があって、ひとつに決まっていません。しかし、いずれの説も石垣島の南から南東の海底だとしています。近年は、琉球大学の中村衛先生が発表した琉球海溝説(活断層+海底地すべりの複合型)を利用したシミュレーションなどが、沖縄県津波防災対策にも活かされています。

→詳しくは、

http://seis.sci.u-ryukyu.ac.jp/index.php/earthquakes_tsunamis/histricalearthquake_tsunais_okinawa/琉球大学地震学研究室HP)をご確認ください。

 

津波の名称としては、「八重山地震津波」とする研究者もいます。でも、「明和大津波」のほうが皆さんには馴染みがあることでしょう。「八重山地震津波」という呼称も気象庁などの公的機関が定めた正式な名称ではないので、皆さんが利用するときには、「明和の大津波」や「明和大津波」でも、「八重山地震津波」でも良いと考えます。

しかし、災害の名称としては、「貞観地震」「慶長地震」「明治三陸津波」など、「時代名称や場所+事柄(災害)」で名づけ、間に「の」を入れない例が多いので、ここでは「明和大津波」で統一しました。

2 明和大津波の特徴

 明和大津波の大きな特徴としては、さんご礁域の津波としてはかなり高い遡上高(津波が駆け上がった高さ)であることが挙げられます。

http://www.tsunami.civil.tohoku.ac.jp/hokusai3/J/publications/pdf/vol.29_15.pdf

  (再考・1771 年明和大津波の遡上高2.-先島諸島全域-:東北大学災害科学国際研究所 災害リスク研究部門 津波工学研究室HPより)

 

また、ぜひ覚えていて欲しい重要な特徴は、地震の後、津波が発生し、陸域に到達するまでの時間がとても短いと考えられることです。

さまざまな研究機関が公表した津波到達までのシミュレーションでは、白保・宮良地域だと平均しても8分~10分前後で到達するという結果になっています。8分~10分という時間は、まだ余震が続いているかもしれません。現代では、身近なものだとブロック塀や信号機、電信柱、道路標識などが倒れたり、場合によっては家屋が倒壊して、道をふさいでいるかもしれません。このような状況の中であっても、できるだけ早く、できるだけ高いところに逃げるということを心がける必要があります。

http://seis.sci.u-ryukyu.ac.jp/hazard/tsunami/tsunami-okinawa.htm

 (南西諸島周辺の断層が動いた場合の津波波高分布図:琉球大学地震学研究室HPより)

 

さらに、防災・減災に活かせる重要な教材としての特徴があります。具体的には、古文書のほか、津波石、伝承、当時から場所を変えていないと考えられる痕跡の存在などです。

 

「大波之時各村之形行書(おおなみのときかくむらのなりゆきしょ)」や「大波寄揚候次第(おおなみよせあがりそうろうしだい)」など、明和大津波から数年のうちにまとめられ、八重山蔵元(やえやまくらもと:当時、石垣島にあった琉球王府の役所)から琉球王府へ提出された被害報告ともいえる古文書には、各村の被害状況が詳しく記されているだけでなく、その後の政治的な対応、津波に関連した不思議なことや、どのように復興していったかなども記録されています。

 

海岸近くに多く打ちあがった津波石は、そのうちの5つは、文化財保護法に基づく天然記念物にも指定されています。「大波之時各村之形行書」の中に、「奇妙変異記(きみょうへんいき)」という項目がありますが、それに津波で動いた大きな石の話があり、そのいくつかが今でも現地に残されています。また、海底深くから打ちあがったハマサンゴという巨大なサンゴも、石垣島の海岸線(主に東海岸)を歩いていると発見することができ、伊原間にあるバリ石は、ハマサンゴの津波石としては世界最大といわれ、天然記念物に指定されました。

※写真1 国指定天然記念物バリ石写真

 

バリ石(国指定天然記念物).JPG

伝承や痕跡は、八重山諸島ならではの残り方をしています。

一口に伝承といっても、いろいろな種類、伝わり方があります。「こんな話を聞いた」と言われても、誰から、いつ聞いたのかが分からないと不確定な話になり、ただのウワサ話になってしまいます。八重山諸島に伝わる明和大津波に関する伝承の中にも、このようなウワサ話はたくさんあります。

一方で、誰が経験したか、どのように伝わってきたかが明確な、各家に伝わる先祖に関する伝承があります。その中には、

どのようにして逃げて、津波後にどのような生活をしたか。

どこまで津波が揚がったか。

どこで、どこに揚がった津波を見ていたか。

どこで、どのような被害にあったか。

どのような理由で墓を作ったか。

など、多くの種類があります。そして、これらの中には、住んでいた地域(村)が違うのに、同じ状況を伝える伝承があったり、助けてもらった側と助けた側にそれぞれ先祖から伝わる伝承があったりします。これらの話をつき合わせていくことで、津波遡上高の検証が進むこともあります。

なぜこのように各家に伝わる伝承がしっかりと残っているのか、という点については、八重山諸島には、明和大津波の頃から代々住み続けている家系が多いから、とも言われます。つまり、都会のように人びとの入れ替わりが激しいということはなく、父母、祖父母、曾祖父母・・・と、自分たちの家の物語として、災害史を伝えているのです。これは、島に生き、祭祀行事などの伝統文化を守り続けてきた人びとが暮らす、八重山諸島の強みだと考えられています。

 

過去の津波の痕跡というのは、例えば考古学上の遺跡でも見つかることがあります。南ぬ島石垣空港を建設する際に見つかった白保竿根田原洞穴遺跡(しらほさおねたばるどうけついせき)では、約1,800年前と考えられる津波堆積物が見つかり、またその近隣では明和大津波のものと思われる津波堆積物や地割れ、1,100年ほど前のものと思われる地割れや噴砂の痕跡も発見されました。ここで言う津波堆積物というのは、大きな津波石に限らず、貝殻やサンゴ、有孔虫など海底にあるはずのものを含む土砂が、陸でまとまって見つかるものです(堆積物を構成するものや状態は、周辺の環境によって異なります)。層として見つかるということは、その場所に津波が襲った、という証拠になります。逆に、津波以前からの石積みが崩れていなかったり、発掘調査でも津波堆積物が見つからなかった場合には、ここには津波が来なかったであろう、と推定する根拠になります。

また、八重山諸島各地に残る御嶽も、津波遡上高を知る重要な証拠になります。

※写真2 白保竿根田原洞穴遺跡津波堆積物写真

白保竿根田原道化追跡の津波堆積層(表示入り).jpg

そのほか、古文書に登場する御嶽のうち、現在でも移転することなく存在し、古文書にも記された御嶽は、津波の被害を受けなかったと考えることができます。

3 どんな被害があったの?

 明和大津波の被害状況は、「大波之時各村之形行書」や「大波寄揚候次第」などの古文書に詳しく記されています。

 「大波之時各村之形行書」の冒頭にある「大波揚候次第」には、こう書かれています。

 

 「八重山諸島には、男女あわせて28,992人が住んでいた。乾隆36年卯年辛亥五ツ時分(午前8時頃)に大地震があった。この地震が止んですぐに東の方で雷のような轟きがあり、まもなく干瀬まで波が引いて、ところどころ潮が立ったと思ったら、それが一つにまとまって、東北、東南のほうに大波が黒雲のように翻り立ち、短い時間に村に三度も寄せあがった。波は、28丈、20丈、15丈、6丈、23丈の高さで襲い、海にあった石は陸に打ちあがって、陸にあった石や大木は根っこから引き流された」

 ※写真3 八重山博物館所蔵「大波之時各村之形行書」画像

大波之時各村之形行書の冒頭(石垣市立八重山博物館所蔵:識名家文書).JPG

 大きな地震のあと、一気に波が引いたようすや、大きな波がまるで黒い雲のように見えたと思ったら、短時間で襲ってきたようすなど、人びとの恐怖が伝わってくるようです。

 

 この津波によって、八重山諸島では9,2009,300人余(古文書によって人数が異なります)、宮古諸島まで合わせると約12,000人もの死者・行方不明者が出ました。

 石垣島で特に被害がひどかったのは、島の南東から東海岸に位置する登野城、平得、真栄里、大浜、宮良、白保、伊原間、安良の各村で、これらの村の被害で石垣島の被害者の約84%に当たります。

 八重山諸島の多くの村では、番所(村役所)、家屋、畑、家畜は引き流され、村の聖地である御嶽やたいせつな井戸にも被害がありました。もちろん、津波が襲った土地は、そのまま住み続けられる状態ではありません。そのため、被害が大きかった村は、移転を余儀なくされたのです。

 また、石垣島の白保村に代表されるように、津波によって村人の多くが命を失った地域では、被害が少なかった島からの移住政策によって、村の再興に努めました。

 さらに、津波後に悪化した衛生状態により、流行病や害虫がまん延するなどの被害もあり、災害からの復興には長い時間がかかりました。

 

 「大波之時各村之形行書」から、住民の多くが犠牲になった白保村の状況を見てみましょう。

 

 津波前には、男771人、女803人、合計1574人が住んでいたが、津波があり、男750人、女796人、合計1546人が溺死してしまった。村は跡形もなく引き流されて土地は荒れ、わずかに生き残ったのは、男21人、女7人の合計28人だけで、村の再建は不可能であった。翌年になり、野国親雲上(のぐにぺーちん)が在番のときに訴えて、波照間島から男193人、女225人、合計418人を移住させた。合計446人で元の村の場所から北西に1120間(1236m)離れた上野地というところに新しく村を作った。

 

 この記述からも分かるように、白保村では人口の約98%の村人が犠牲になりました。このような人的被害のほか、御嶽や牛、馬、畑の被害、村の移転に関することなども、古文書には詳しく記されています。

4 津波の遡上高はどれくらい?

 津波の遡上高は、地域、地形によって異なります。地形の起伏(アップ・ダウン)が激しいところでは、津波は抑えられることもありますが、平地だと高さがなくても、陸域の奥深くまで入り込むことが分かっています。

 遡上高について古文書にどう書かれているのかというと、最初に紹介した「大波之時各村之形行書」の冒頭にもあるように、「波は28丈まで揚がった」と記されています。そのほか、宮良村の項目には、もっと衝撃的な数字が記されています。

 

 一、宮良・白保地境嘉崎、潮上り戸高弐拾八丈弐尺

 

 宮良村と白保村の境界にある嘉崎というところから波があがった高さは、戸高で28丈2尺(約85m)もあった、というのです。この記載が、明和大津波の遡上高85mの根拠となっていました。しかし、現状では、そんなに高いところで津波の痕跡(例えば、海から運ばれた砂やサンゴのかけらなど)が見つかった例はありません。

 

 古文書の記載に基づけば、最大の遡上高は85mということになりますが、ここで大きな疑問が生じます。同じ宮良村の記載にある「仲嵩御嶽」の記載です。

 

一、同所(番所)より寅方、仲嵩御嶽有

   但、旧式之通無別条候得共、村敷替ニ付記之

 

 ここには、(元の番所津波の被害にあったため)移転した先の番所から寅(北東)の方向に仲嵩御嶽がある。ただし、元の通り被害はなかったが、村を移したため記したもの、とあります。

 牧野清氏によって提唱され、よく利用される85m地点といえば宮良牧中地区ですが、仲嵩御嶽があるのは、その85m地点にも近い標高70mほどの場所です。85m地点まで津波が遡上したのに、70m地点に被害がないと記されているのです。

 

 また、宮良には標高約64mの地点にタコラサー石という巨石があります。宮良のある家には、津波の後に「津波が襲ってくるのを見た先祖が逃げた場所が、タコラサー石のある高台であった。ここにはほかに、2名が逃げてきた。夜になって火を焚いていると、それを目印に生き残った人びとが集まって、しばらく共同生活をしていた」という伝承があります。ここは、津波後に宮良村が移転した場所の近くです。

 このように、複数の古文書の記載や伝承、実際に現地に残る史跡の存在が、85m説とは矛盾してしまうのです。

 →http://www.tsunami.civil.tohoku.ac.jp/hokusai3/J/publications/pdf/vol.29_14.pdf

  (再考・1771 年明和大津波の遡上高1.- 85m遡上説の矛盾と問題点-:東北大学災害科学国際研究所 災害リスク研究部門 津波工学研究室HPより)

 ※写真4 タコラサー石写真

宮良タフナー原にあるタコラサー石.jpg

なお、85m説とセットで語られるものに、津波石垣島の東側から西側にある名蔵湾に抜けた、という話があります。しかし、抜けた先と言われる名蔵村は、「大波之時各村之形行書」に、「村も御嶽なども被害はなし。橋は引き流されるなどの被害があった。波は石垣の方向(ここでは蔵元の方向である南側)からあがった。田んぼに被害があった」と記されています。

また、スリ山は、「東海岸から西海岸に津波が通過する際に、頂上をすりきったからスリ山となった」との伝承がありますが、明和大津波よりも前に記された古文書(「参遣状」乾隆6年の項目)には、

 

一、同平得山之内浦田山首里山けとう山わらひたう

 

とあり、これは、今でも石垣市民になじみがある浦田山やスリ山、カードー山、バラビドウのことです。この「首里山」が訛って、スリ山になったと考えられています。これは、ウワサ話に近い伝承ということになります。

 

しかし、だからといって、古文書に記された波の高さが、すべて否定されるわけではありません。明和大津波を研究していた島袋永夫さんは、「大波之時各村之形行書」に記された戸高という言葉に注目しました。「潮上り戸高弐拾八丈弐尺」「真謝浜より損所迄潮上り戸高給九丈八尺」などに使われる「戸高」です。

江戸時代には、規定の大きさで長方形に作られる戸板(雨戸などに利用される板戸)を利用した測量方法があり、この戸板を利用した測量方法では、高低差の大きいところを測量した場合に大きな誤差が生じてしまうそうです。

実際に、戸板を使った測量であったかは分かっていませんが、「大波之時各村之形行書」に記載された遡上高を、現代技術を使って測量していくと、低地(現在の市街地など)では誤差が小さく、段丘崖を何段も登るようなところでは、誤差が大きくなっていることが分かっています。

※写真5 白保千人墓に向かう段丘崖の写真

白保千人墓へ向かう段丘崖(横長トリミング済み).jpg

現在のところ、遡上高としては、今の市街地あたりで8m~10m、宮良や白保あたりで約30mであるという調査結果があります。

でも、この結果はあくまでも遡上高の話です。宮良川など大きな川を遡上した津波は、標高20mを超えるところであっても、島の奥深くにまで達しています。標高が低いところでは、海岸から離れたところにいても危険だということには変わりありません。

明和大津波でも、川を遡上したと思われる津波に関する家に伝わる伝承が残されています。例えば、四ヵ村は背後(北側)からも津波が来た、轟川を遡上した波が宮良の仲田原や底田原の田んぼに流れ込んだ、などです。

このような浸水被害は、現代でも十分に想定されるものです。

5 過去の災害を防災・減災に活かす

 「明和大津波の遡上高は85m!」というのは、とてもインパクトがあります。そのインパクトを利用して、津波の被害を大きく伝えて、防災に活かすべきだ、という考えも聞きます。

しかし、反面、インパクトがありすぎると、人命を奪うことがあるということも理解しなくてはなりません。

 

 東日本大震災で有名になった言葉に「津波てんでんこ」があります。その言葉の元になったエピソードを紹介したことで有名な山下文男さんは、著書『津波てんでんこ-近代日本の津波史-』の中で、明治三陸津波についてウワサとして伝わっていたことが原因で、昭和三陸津波の際に逃げ遅れて亡くなった人がいたことを伝えています。

 

 明和大津波の85m説で、もっとも避けなければいけないのは、この高さにびっくりして、逃げることを諦める人が出てしまうことです。

 

 実際に津波が襲ってきたら、冷静な判断は難しくなると思います。先にも紹介したように、地震発生から津波が襲ってくるまでも数分しかありません。

自分の身近なところで高い建物を探して逃げることはもちろん重要ですが、安全な建物はどこか、あと何m高いところに逃げたらよいのかを短い時間で判断しなくてはなりません。

 

 災害は突然起こります。少しでも冷静に対処できるよう、日常的にハザードマップなどに目を通しておきましょう。

 自分が今いる場所を正しく理解して(標高や周囲に川、壊れやすい建物がないか等)、逃げることを諦めないことがたいせつです。

 

明和大津波の伝承などでは、これらの防災意識につながることもしっかりと伝えています。

 例えば、石垣市字白保には、災害のときに語られる教訓があります。それは、明和大津波のときに与那岡に逃げて助かったというもので、白保では今でも、「津波が来たら与那岡に逃げるように」と伝わっているそうです。

 

与那岡の標高は約60m。西側に直進すれば宮良牧中の85m地点という位置にあります。先に紹介したとおり、もし85m説を信じ込んでしまったら、与那岡ですら助からない、逃げても無駄、と考えてしまうかもしれません。

そこまで逃げたら助かる、という希望を持たせることも、ハザードマップなどで情報を伝える大きな目的です。

※写真6 白保与那岡写真

与那岡(ユナムリィ)(横長トリミング済み).jpg

あわせて、まったく同じ災害はないということも伝えなければなりません。特に、現代の工事技術の進歩により、深く直線化した河川や、岩礁を割って船を入りやすくした港なども増えています。このような条件では、狭いところに勢いを付けた津波が進入し、明和大津波よりも被害が大きくなる可能性もあります。

また、高い建物が多い市街地では、建物と建物の間を通り抜ける津波は、平地に進入した津波よりも浸水深は深くなり、スピードも速くなります。

 

先に紹介したように、地震の発生から津波の到達までの時間が短いことが分かっています。

10mくらい遡上すると考えられている地域だとすると、例えばアパートやホテルなどの4階にいたら大丈夫と考える人もいるかもしれません。でも、本当に10mくらいの津波が来たら、ガラス窓を割ったり、壁にぶつかって建物に侵入した波が4階部分より上に浸水することは十分考えられます。実際に東日本大震災による津波では、病院の1階から3階部分に津波が浸水したとき、そのまま建物内を移動して4階部分に到達したという話もあります。

 

東日本大震災で有名になった言葉である「津波てんでんこ」。この言葉の印象から、自分だけ逃げるのは薄情だ、と考える人もいるかもしれません。しかし、みんなが事前に「津波が来たらこのように逃げよう」と打ち合わせをしていたらどうでしょう。「自分も必ず逃げるから、みんなも逃げて」と約束し、どこで集合するかまで決めておくと、助かる可能性は高くなることでしょう。場合によっては、ご高齢であったり、体の不自由なご家族もいるかもしれません。その場合には、誰がどのような行動をとるのかまで決めておけば、より命を守ることにつながるでしょう。

白保に伝わる「津波が来たら、与那岡に逃げる」という教えは、まさにこのことを伝えています。

 

これまで紹介してきたように、過去の災害から学べることはたくさんあります。また、地域の防災計画などは、こういったものも考えた上で作られています。

もう大きな津波が起こらないという保障はどこにもなく、研究者たちはいつ起こってもおかしくない、という指摘をしています。

明和大津波という琉球史最大の災害を教訓に、今一度、身近な防災・減災について考えてみてはいかがでしょうか。